[イベントレポート]大阪大学×KNOWLEDGE CAPITAL「既読無視不安はなぜ起こるのか? 〜『透明性の錯覚』からの考察」

[イベントレポート]大阪大学×KNOWLEDGE CAPITAL「既読無視不安はなぜ起こるのか? 〜『透明性の錯覚』からの考察」

2018 年9 月12 日(水)に開催された大阪大学×KNOWLEDGE CAPITAL 「既読無視不安はなぜ起こるのか? 〜『透明性の錯覚』からの考察」の開催レポートです。21 世紀懐徳堂の学生スタッフ、平良が執筆しました。

そもそも「既読無視」という語が公開講座のタイトルに含まれていることそれ自体が面白い、と感じた。それは私たち世代にとってあまりに身近な’日常語’であって、いやしくもアカデミズムの俎上に乗るようなものではない筈だったからだ。一方で、昨今のニュースを見ていると、本講座でも話題の中心となったメッセージアプリLINEなどに代表されるソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)絡みの暗い事件が報道されていたりする。また、最近では仕事の連絡や学校のPTA連絡にもLINEが使用されることが珍しくないという。「私たち世代」と書いたが、このような状況で「既読無視不安」は単なる思春期の若者の悩みに留まらない、幅広い年齢層にとっての切実な問題なのかも知れない。そんな「既読無視不安」が、タイトルにある様に「錯覚」によって引き起こされているとしたら少しは自分の不安を客観視して安心することができるだろうか…そんな期待を胸に、講座に参加した。

本講座の講師は人間科学研究科准教授の綿村英一郎先生。ご専門は社会心理学で、近年の主要研究テーマは「刑事裁判の量刑判断」とのことだ。開始の時刻になり、老若男女とりどりの参加者が概ね席に着くと、先生が前に立った。演台にはなぜかカルピスウォーターのペットボトルが一本。簡潔に自己紹介をすると、参加者からとある実験の助手を務める人物を一名募った。その実験とは以下の様なものだ。

綿村先生1

参加者の質問に熱心に答える人間科学研究科准教授・綿村英一郎先生。

カルピスウォーターが注がれた紙コップを3つ用意する。3つのコップはいずれも同じ種類で、大きさや色など見た目では区別がつかない。但しコップの中身に関しては、いずれかひとつのコップにだけ、カルピスウォーターにポン酢を加えたものが入っている。参加者の中から突如抜擢された実験助手は、衆人環視の中で3つの紙コップの中身を任意の順番で飲み干す。この際助手は、何番目に口にしたコップにポン酢が入っていたか、見ている他の参加者にはわからないように飲まなければならない。他の参加者は、どのコップがポン酢入りの「当たり」なのか当てなければならない。

助手は高校生の女の子が務めることに決まり、実験が始まった。先生も曰く彼女はなかなかの’演技派’で、これといって決め手になるような兆候はないように私の目には映った。すべてのカルピスウォーターを飲み干すと、先生が助手を務めた女の子にこっそりと何やら紙に書く様に指示した。続いて、他の参加者に何番目のコップが「当たり」だと思ったか、と質問し挙手を求めた。「当たり」だと予想した人数は一番目から順に、20人、10人、4人。そして答え合わせ。正解は…3番目。最も予想した人数が少なかったコップだ。

綿村先生2

ポン酢入りカルピスウォーターは何番目…?

次に、先ほど先生が助手を務めた女の子に書かせたものを教えてくれた。どうやら彼女には「何人にポン酢入りのカルピスウォーターがバレたと思いますか?」と質問をしていたようで、彼女はその答えを書いていた。その彼女の予想はというと…10人。実際に当てた人数の倍以上だ。

この実験結果の誘因こそ「透明性の錯覚」と呼ばれるものである。透明性の錯覚とは、要するに’過度の見透かされ感’のことである。実際に「当たり」を言い当てられたのはたった4人だったにもかかわらず、彼女は自分の飲み方の表情などから過度に「当たり」を見透かされた気がして10人には伝わってしまった、と感じたということだ。

先生は、私たちが「既読無視不安」を感じるとき、この助手と同じように透明性の錯覚に陥っているのではないか、という仮説を立てたというのだ。つまり、自分が既読無視をしてしまった際に、相手が自分から返事がなかった理由をネガティブに考えて、自分のことを嫌ってしまうのではないかと過度に不安になってしまう、ということだ。

先程のカルピスウォーターの実験では対面型のコミュニケーションで生じた「透明性の錯覚」を体感することができたが、非・対面型コミュニケーションを行う際にもこの錯覚は生じ得るのか?仮説の立証のためにはまずこのことを確かめる必要がある。そこで先生は、以下の様な実験を行った。被験者を対面でコミュニケーションをとるグループとLINEのメッセージのやり取りでコミュニケーションをとるグループに分け、会話をしてもらう。それぞれのグループには話題提供をするリーダーがいて、彼らは3つほどのトピックを提供する。そのうちふたつのトピックは自らの体験に基づいたものであるが、もうひとつは作り話、つまり嘘のトピックを混ぜて話す、というものだ。そして、先程のカルピスウォーターの実験と同じく、何人に嘘を見破られたかを予想してもらう、というものだ。結果は、驚くべきものだった。表情やしぐさなどの手がかりのないLINEでのコミュニケーションを行ったグループの方が、透明性の錯覚に強く陥ってしまったのだ。

綿村先生3

「透明性の錯覚」についての説明に聴き入る参加者。

この「透明性の錯覚」のポイントは、実際には相手はそれほど自分のことをネガティブに捉えるはずがないのに、そのように思い込んでしまうという非対称性だという。先生が実施したアンケートによると、自分が無視された場合/無視した場合にメッセージのやり取り相手をどう思うか/相手にどう思われるか、とそれぞれ尋ねると、前者の場合相手のことをネガティブに捉える意見は少ないのに対し、後者では自分がネガティブに捉えられると考える意見が多数になるというのだ。

しかし、このような錯覚に知らず知らず陥ってしまう私たちはいかにしてこの不安感から逃れうるのだろうか。先生は勇気をもって自分の方から「そっと無視すること」を提言するが、そうは言ってもなかなか勇気が出ない…とったもっともな意見もあった。しかし、先生の見立てでは、現在あるようなSNSはそう遠くない将来には新たな技術に取って代わられるだろう、とのことである。私たちの生活を良くも悪くも大きく変えたSNSを超える技術などなかなか想像もつかないが、先生が講座の最後におっしゃっていた通り、ヒトの進化と比較にならないくらい急速な進化を遂げる科学・技術をある種の指標として、私たちのコミュニケーションや心といったものの何が変わり、何が変わらないのかを見つめることこそ、重要なのではないだろうか。

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